第4話「四向へと到達せしすなわちニバナ」
もしあなたに降伏せず戦おうとするならこれを包囲しなさい。
‐申命記20章12節‐
「いやだ、いやだ、いやだ、もうじょ~~~~~~~~~~だんじゃ~~~~~~~~~~ないっっ!!!」
「はははっ! 四向へと到達せしすなわちニバナ!!」
御仏シャカはもうこのパートナーとの関係を解消したいと心の底から思っていた。彼女が上部座ヴァーダと出会ったのは今から3年前。
この世界に使徒(プレイヤー)として転生するよりも以前。
御仏シャカは漫画が学生の頃から大好きだった。特に手塚治虫が好きで彼の描いた「ブッダ」という仏教の開祖である釈迦族の王子をモチーフにした漫画が大好きだった。社会人になっても趣味の漫画好きは止まらず、配信者となった時にもブッダをモチーフにしたモデルを制作してもらったほどである。
そんな御仏シャカがこちらの世界に転生してまず初めにやったことといえば、手塚治虫の良さを伝えることである。彼もとい転生した彼女は漫画を描いた。覚えている限りの漫画の内容を描写した。紙や木板。はては壁画に至るまでありとあらゆる場所で漫画を描いた。
そうしてシャカが描いたブッダの物語はこの世界の人間たちに浸透していき、多くの信徒たちを生み出すことに成功したのである。
御仏シャカはそのたくさんの信徒から毎回適当な相手をパートナーとして選びながら、時代をゆるゆると生き続けていた。
「某が上部座ヴァーダである」
それが唐突に大終焉が迫り戦いに適したパートナーを選ぶ必要性に迫られて選んだのがその男だった。頭は剃髪していて袈裟からはだける長身は細く引き締まっている。
「御身が御仏シャカか」
「そうだよ」
「ふむ、思ったよりも小さく愛いのだな」
上部座ヴァーダは長く修行を積んだ人が放つ浮世離れした独特の雰囲気を醸し出していたが、他の僧とは違いシャカに馴れ馴れしく何となくシャカはそれが気に入らなかった。
「俺って一応お前らが崇める神様なんだけど?」
「神?」
「漫画の神様ってやつ。まあ、パクリだけど」
「ははっ、御仏は神ではないぞ、シャカよ! 自灯明、法灯明!」
何故だか説法までかまされてしまう。
こいつ苦手だ。シャカは前世でも距離を取っていたタイプの相手だと上部座ヴァーダを認識するが、残念なことに前世と同様にそういう苦手な相手の縁ほど存外に長くしぶといものになると輪廻の業を痛感していく結果となった。
二人が契約を結んで三年の月日が流れて現在。
ヴァーダとシャカはスイメル山脈を登攀していた。
スイメル山脈越えである。
「どうかしてる!! 本当にどうかしてるよ!!」
シャカは絶叫していた。
凍てつく空気、嵐のごとく吹き荒れる雪。こぼれた涙すら瞬時に凍り付く絶対零度の中で煮えたぎる不満を爆発させるしかない。
「スイメル山脈なんて地獄に最も近い場所の一つだ!」
「シャカよ! あまり喋ると体力を失うぞ!」
「馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど真性の修行馬鹿だよ、お前は!」
ヴァーダやシャカの後を追うように僧の列ができている。彼らはみなヴァーダの弟子だ。生けるものの侵入を阻む「絶山」スイメル山脈に足を踏み入れてあまつさえ踏破しようなどとはあまりにも恐れ知らず。
「仕方がなかろう! ここを通るのが一番ロルムに近い!」
「いくらロルムに近いからって絶山を通るなんて正気なもんか!」
「この程度の寒さ大事ない! 我らには御仏の力(フェイス)が宿っているのだからな」
「寒さなんか問題じゃない! ここには幽穴があるんだぞ!」
「四向へと到達せしすなわちニバナ!!」
ヴァーダが高らかに諳んじると弟子たちも同じ文言を諳んじた。
ニバナ、ニバナと叫び続ける集団は猛吹雪の中を裸足に袈裟一つで登攀する。
「俺の話を聞け~~~~っ!!」
シャカに一つ誤算があるとすれば広めた漫画の内容をこの世界の信徒たちが独自に解釈してあることないこと付け足してとんでもなくストロングな宗教体系を築き上げてしまったことであろう。ニバナに辿り着く為にあらゆる苦行を受け入れあらゆる争いを止めるというIPOもびっくりの平和機構と化している。特にヴァーダが僧をまとめるようになってからその一途は激しい。
「話なら後でいくらでも聞こう! 今はロルムに急がねば!」
ヴァーダは耳にした。
世界の三分の一を統治するともいわれる大国ロルムの教皇が病に没したと。
「ロルムの新たな教皇は聖騎士団を総動員して帝國に戦いを仕掛けるんだっけ!」
「そうだ!」
帝國とはこれもまた世界の三分の一を牛耳るといわれる大国である。「帝」と名乗る優れた支配者によって国が治められている。
「ロルムと帝國! 二つがぶつかれば大終焉を待つまでもなく世界は滅ぶ!」
「だからって俺らなんかに止められる訳ないじゃん!」
「いいや、止めるさ!」
ヴァーダの言葉に迷いはない。
「某が止める! 厭離穢土、欣求浄土!」
その説法微妙に間違っていないかとシャカが物申そうとした時、それはついに出現した。
吹雪が吹き荒れる中、肌を叩き、足を縛り付けていた風が突然一つの方向へと吸い寄せられていることに気づく。訝しみ僧たちはその場に止まりかけた。
「止まるな! 走れっ!!」
シャカが叫ぶ。彼女が見つめる視線の先、雪にまみれた白の世界にそれはぽっかりと黒の穴を作り上げている。
「幽穴だ! みんな吸われるぞ!」
風景に反したつやのない穴はないがある。世界の壁を剥がしたような異空の亀裂が漆黒の手を伸ばして逃げ惑う僧を追いかけた。僧たちが力(フェイス)を駆使し逃げるが絶山を踏破せんとした健脚でも抗うことはできずいくら走れども穴との距離は縮まるばかり。清流のビバシャと呼ばれる僧が殿で踵を返した。指印を組み、力を収束させる。
「岩を咬め氷蛇(マナス・ドゥルガ)!」
力によって生み出された氷の蛇が幽穴を押しとどめようとぶつかるが音もなく蛇が吸われて消える。力ごと世界から消え失せたようだった。うろたえるビバシャもあっという間に穴の中へと姿を呑まれる。幽穴に触れたものは何人であってもたとえそれが使徒だったとしても存在の消失は免れない。
スイメル山脈が踏破不可だといわれるゆえんは幽穴の発生にこそあった。
シャカが一心不乱に逃げる。僧たちも呑まれた仲間を置いて逃げた。だが上部座ヴァーダだけは逃げなかった。
「世間虚仮、唯仏是真!」
幽穴になんの躊躇もなく飛び込んだ。まったくの蛮勇。恐れ知らずを通り越した身の程知らずである。しかしそれが上部座ヴァーダであり上部座ヴァーダには力(フェイス)があった。
誰もが幽穴に呑まれたヴァーダの帰還を諦める中、真言が響き渡る。
「四向に到達せしすなわちニバナ」
幽穴からヴァーダが戻ってきた。その腕に清流のビバシャを抱えて。それがヴァーダの能力。使徒すら帰還できない虚空の孔に呑まれてもなお、無事でいられる絶対守護領域。ヴァーダは領域の力(フェイス)を操ることができる空間使いであった。
吹き荒れる吹雪さえもヴァーダの周囲では凪いでいる。
「ニバナ」
「おお、ニバナ」
僧たちはヴァーダを拝んだ。これぞまさしく御仏の為せる御業。シャカも釈然としないながらこの男の圧倒的な能力には一目置かざるを得なかった。こと戦闘にいたれば上部座ヴァーダとはどんな能力でも戦いにはならない。
しかし。
「さあ、ロルムへいこう。教皇に法を説かねばな。その次は帝だ」
上部座ヴァーダには争うという意識が欠落している。
最強の空間使いにして致命的な平和主義者。
上部座ヴァーダ。
まるで漫画のチートキャラみたいだと御仏シャカは頭の中であてはまりそうなタイトルをいくつか思い浮かべた。